御影 弟組 MIKAGE OTOGUMI 其の十八

         兄組編   其の以

         

           杉江屋にて


             

「 迷うて居られましたか 」

  口を開く度

  良く陽に焼けた 四角い顔に貼り付く小豆の様な目の莢(さや)も薄

 く開き尊治を見詰めて返す

「 … はい …

  此れ迄 言葉では言い尽くせぬ程御世話に成って参った我ら成るも

  両御本家様の胸の内を相察しますれば やはり出張らねば成りませ

 ぬ故 … 」

「 御世話に成った義理ならば もう十分に御返し為されたではござり

 ませぬか其れにあの御二方 蒲生賢秀様並びに氏郷様は義理を盾に取

 る様な事などせぬ方々でございます

  其の御二方が御許しに成られたのであれば何の遠慮も要りますまい

  愁う事無く御出張り為され 其して必ずや生きて御戻り下され 」

「 清六殿 此度の戦 前田方の勝利は間違いござらぬ 然れど戦は戦 

  生きて戻れるかどうかなど天のみぞ知る処 故に此れ迄の事此の尊治

 改めて礼を申し上げる 」

「 おっ 御止め下され尊治様 手前が今此れ在るは実家でくすぶって居た

 私を鷹の捕り手に加えて下された貴方様の御父上 政治様の御陰なのでご

 ざいます 此れ迄の事は いえ 此れからの事も 其の御恩を直に政治様

 へ御返し出来ぬせめてもの報い 故に 手前に礼など御止め下され 」

「 清六殿 遊佐続光 盛光の親子を討てたのは其方の御陰なのだ

  其の礼だけでも言わせてくれ 」

「 手前は行き掛けの船に御乗せした迄の事 礼を言われる程の事ではご

 ざりませぬが 尊治様が其処迄申されるのであれば 其の御言葉有り難

 く頂戴致しまする 」

「 うむ 其うしてくれ …

  で … 秋実様の実の字を戴いた御方は … 何と言うて居るのだ 」

「 又 其の様な物言いを 其の御方の御言葉を聞きに参られたと言う事は

 広之進殿とは仲直り為されたのでござりまするな 」

  尊治は何の事かと首を傾(かし)げ 傾いだ口に当てた杯を一気に呷り

 開け放たれた闇色の庭へ向いた口がそろと開く

「 … 思い返せば 両御本家様が能登を逐われて後 義慶(よしのり)様の

 突然の死に奴らは直ぐ様弟の義隆様を担ぎ上げたものの 義慶様の後を追

 う様に義隆様も此の世を去られた 二人の死は奴らの手に拠るものに違い

 無く此のままでは未だ幼い義隆様の子 春王丸様の御身も危うい … 」

「 春王丸様を御救いする様 両修理太夫様の御意を蔵治様と宏実様へ御

 伝えせよと 余呉の平(ひら)様より文を託されたのでございましたな 」

「 うむ だが其処は御爺殿 既に策は練り終えて居られたがな 」

「 東の馬場で暴れしは其の帰りの事でございましたか 」

「 存知て居ったか 」

「 宏実(ひろざね)様は 何をして居るのだ我らの身を危うくする積もりか

 とかんかんでございましたが蔵治様は 尊治らしいではないかとほくそ笑

 んで居られましたぞ 」

「 好んで暴れた訳では無い 」

「 あの日は六月の末日 雨乞いを兼ねた夏越の祓えの為の馬揃えの日 」

「 ふんっ 祓えは己れらの悪行が災いと成って帰って来ぬ様願うたもので

 あろうよ 雨乞いを兼ねて居たのだちょんこと水を差してやった迄よ 」

「 はっはっはっ 尊治様も洒落る事がございましたか 

  奴らの幟旗(のぼりばた)が 目に障りましたかな 」

「       …       」

「 成る程 其れならば 万亀丸殿らを叱る訳には参りませぬなあ 」

  尊治は 其れは聞こえぬ素振りで闇色の庭を睨み 話を戻せと杯を呷る

「 そうでございましたな はいはい では 」

  清六は一度言葉を切り

  蝦蟇(がま)の如き大きな口にそぐわぬ小さな声で言葉を継ぐ

「 … では 御話し致しまする …

  宏実様が申しますには 真の裏切り者は … 義春様 … と 」

「 兄上は 何を以(もっ)て其う申して居るのだ 」

「 でのうては辻褄が合わぬ と 」

「 辻褄が … 義春様は大殿義続様の御次男ぞ 信じられぬ 」

「 奴らを恨む事より 春王丸様が居らねばと 

  己れの欲がむくりと頭をもたげた処を … 」

「 温井らに見透かされてし申たか 」

  小豆の莢(さや)がゆるりと閉じた

「 何と言う事だ … ならば兄上は 春王丸様や我が弟組の縁者の方々を

 見棄てて御城を抜けた訳では無いと 」

「 はい やはり其の辺りから御話し致さねば成りませぬな 」


  

  天正五年(1,577年) 九月十五日 十五夜の夜

  春王丸を救う可く 上杉方の総攻撃に乗じ闇に紛れ宏実と兄組の二番組

 が西の丸へ踏み込んだ のだが …

「 宏実様居りませぬ 衛士すら何処にも見当たりませぬ 」

「 ばっ 馬鹿な … 春王丸様は此の西の丸から一歩も外へは御出に成っ

 ては居らぬ筈 ええいっ探せっ探せ探せ 何としてでも探し出すのだ 」

  二番組の者共は宏実の叱咤に隈無く探すも 春王丸の姿は何処にも見当

 たらず不安と言う名の振り子の幅が大きく振れる

「 やはり 何処にも見当たりませぬ … 宏実様 … もはや 」

  二番組の組頭 佐々木茂平が焦りの眼を向ける

「 馬鹿を言うで無い茂平 」

  言うてはみたものの 身体から血の気が引いて行くのを感じずには居ら

 れぬ宏実であった

「 … 宏実様 時間(とき)がござらぬ 此処は一旦退けの指図を 」

  茂平の面に焦燥の色が浮かび 宏実の身体の中で一度引いた筈の血の気

 が凄まじい速さで逆流を開始する 

「 くうっ おのれえいっ 乱心賊子の者共があっ 無念だが 

  ええいっ者共 退けっ 退けえいっ 」

  前庭に飛び下りた宏実の眼に 庭の隅にこんもりと盛り上がる土饅頭が

 ちらりと映る 震える指を歯噛みする口へ突っ込み吹き鳴る音も何処か寂

 しく寂しき音に導かれ 菊池鈴之助率いる三番組が兄組の縁者を引き連れ

 庭の石垣から連なる楼門を抜けて行き 其れと入れ代わる様に一番組の組

 頭山野一圭が紅葉色の房髪(ふさがみ)を揺らし乍ら駆け来たり片膝付いた

「 応っ 一圭 」

  声を掛ける茂平を見上げた一圭の面に諦めの色が滲む

「 … 茂平 … 御前の背に春王丸様の姿が見当たらぬが 」

「 … 察せよ一圭 」

「 … やはり 其うであったか 」

「 やはりとはどう言う事だ 御前此其 弟組の縁者の方々は如何した 」

「 … … … 」

「 … 真逆とは思うが … 其うなのか 」

  一圭は 右の拳でがつりと地を打ち

「 宏実様 弟組の縁者の方々皆 既に … 」

「 … 殺られて居ったか 」 

「 はっ 」

  半ば呆然とする宏実の前に

「 宏実様 両組頭 奴らが来ます 」

  一圭の手の者が告げ来たる

「 誰の勢で 数は 」

「 茂平 事此処に至っては誰の勢かなどどうでもよい 数もな  

  一圭 手の者は揃うて居るな 」

「 はっ 」

「 一番組の者共で奴らを迎え撃つ 」

「 宏実様 我ら二番組も 」

「 茂平 其方ら二番組は鈴之助の三番組と共に

  縁者の方々を確と御守り致せ 」

「 しっ 然し宏実様 」

「 茂平 此処は我らに任せて行ってくれ 」

「 一圭 … 判った縁者の方々は任せてくれ 

  では 宏実様 御先に後免 」

  茂平ら二番組は切歯扼刀(せっしやくとう)し乍ら門を抜け

「 者共良く聞け 此の庭に突撃して来る者は全て入れる 投矢の棒を得手

 とする者らは屋根へ登れ 合図の笛が鳴り次第其方らは屋根の上から打っ

 て打って打ちまくれ 矢が尽きた者は我らに構わず茂平らの後を追うの

 だ 途中向こうて来る者有らば容赦はするな 

  斬って斬って斬りまくれえいっ 」

  応っと鬨の声の後に 奴ら来たるの笛が鳴る

「 来るぞ一圭  」

  はっ と応ずる間も無く無考の者らが一気に雪崩れ込んで来る

  一番組の斬撃凄まじく 

  刃を向けて来る者の腕は断ち斬られ首は刎ね飛び 

  宏実の刀撃も正に阿修羅の如く 返り血を浴びた面は怒気に満ち 

  かっと見開いた眼はぎらりと光り 刃の列がじりりと後ずさる 

  同時に一圭の口から指が鳴る 

  其れを合図に 屋根の上から次々と矢が打ち込まれ前庭は無考な者らの

 死体で埋め尽くされた

「 宏実様 退き時でござりましょう 」

「   …   」

「 宏実様 」

「 … 一圭 手の者率いて先に行け 」

「 なっ 成りませぬ 其れは成りませぬ 」

「 行けと申すに 」

「 ならば其れがしも最期迄御共致します 」

  手の者らも我も我もと声を上げる

「 … 御前ら … 一圭 殿(しんがり)は俺と御前だ 」

「 はっ 皆の者 … 行くぞ 」

  言うなり 紅葉色の房髪がゆらと揺れ

  宏実らは二番組の後を追った

     …     …     …     …

  

「 … 清六殿 … 

  兄上らが七尾の御城を抜け出た処迄は我らも既に探り知って居る 判ら

 ぬのは 落ち合う筈の気多大社(けたたいしゃ)に誰一人居らなかったのは

 何故だ 」

「 追っ手が直ぐ其処迄迫って居たのでございます 

  宏実様は気多大社に籠る事も考え為された其うですが 追っ手は上杉の

 上条政繁率いる勢凡そ五百 縁者の方々を抱えては流石に太刀打ち出来ぬ

 と 宮の浦に泊まって居た船に乗り込んだ其うにございます 」

「 追っ手は上条政繁 今は義春様の養父 … 成る程な …

  義春様の裏切り 真の様だな …

  で 兄上は何故彼の地へ向こうたのだ 」

「 いえ … 何処へ向かう積もりも無かったのでございます 

       …     …     …


「 一圭 茂平 鈴之助

  弁才船が丁度三隻在る 手前の船から組毎に乗り込め 」

「 船長(ふなおさ)には何と 」

  一圭の問いに

「 銭は払う 織田の援勢が来る迄沖に避難させてくれと 」

「 御任せを 」

  冑をがしゃりと外した紅葉色の房髪が ざぶりと波に乗る

「 相変わらず見事な泳ぎっぷりだわい のう鈴之助 」

「 真に 正に水を得た魚 あ奴 前世は海豚(いるか)か何かであろう …

  おっ もう着き居った 早いのう … 」

  背から射し込む朝陽が波のうねりに照り返り

  額に手を翳(かざ)す宏実の前に 宏実の許嫁(いいなずけ)美春が膝を折る

「 … 如何した 」

「 … 御耳を  」

  耳打ち終えた美春へ 耳打ち返す宏実の面は苦渋に満ち 握る手の平に

 血が滲み砂地を後退る美春へ向いた宏実の目蓋が静かに閉じた

「 むっ 手を振って居りまするぞ 」

  茂平の声に

「 うむ 話しは付いた様だな 

  さあ皆の者 縁者の方々を御乗せしろ 急げ 急ぐのじゃあっ 

     …     …     …     …


「 … 何とか船に乗り込む事が出来たのですが … 」

「 … 御爺殿は 其の時に … 」

「 … はい 疫病に冒されたまま回復せず 宮之浦に着いた途端眠る様に

 逝かれた其うにございます … 」

「 其れであの様に 野晒しのままであったのか 」

「 はい 戻る迄の暫しの間の事と思うて居りました宏実様に取りましては

 正に青天の霹靂 安置場が人目に付かぬ処とは申せ結果 置き去りにした

 事に変わりは無いと … 」

「 苦しみを一人で背負うて居られたか 」

「 … 尊治様 …

  宏実様の真の苦しみは 此れからなのでございます 

     …     …     …     …


  宏実らが船に乗り込むのを待って居たかの様に

  南から生暖かい風が吹いたかと思う間も無く空は曇天し

  船を操る弁才衆の顔も俄に曇り出す

  降り始めた雨は行き成り横殴りの雨へと変わり

  風を孕んだ筵帆(むしろほ)は帆柱を軋ませ

  船はゆらりと大きく揺れて傾き

  傾きが戻る度にざばりと岸から遠ざかる


「 ちっ 碇も役に立たねえ様だなあ

  おうっ 綱が切れちまわねえ内に碇を上げろ 」

  石を木で挟んだ木碇(きいかり)が ゆるゆると引き上げられて行く間

  風も雨も其の勢いを増し 帆柱は悲鳴を上げ乍ら円を描いて撓(しな)り

  飛礫(つぶて)と化した雨が容赦無く頬を打つ

「 ふっ 船長(ふなおさ) 此りゃあ直に嵐になりゃあすぜ 其れも大嵐だ

  其うなりゃあ此のぼろ船だあ 長くはもちゃあせんぜ 」

「 其んなこたあ おめえに言われんでも先刻承知の助よう

  此の船だけじゃあねえ 

  他の船も此の冬には薪に成る運命(さだめ)の船だ 

  其の間 浦内で人を乗っけて下ろすだけの楽な仕事だから引き受けたん

 だが 季節外れの此の大風 おめえの言う通り船は長くは持つめえよ 」

「 だったら何で碇を上げさせたんでやんす 」

「 奴らとは 織田の兵が来る迄船から下ろさねえと約を交わしたんだ

  今下りて下せいと言った処で奴らは下りねえだろうし 下手を打てば此

 の場で手打ちにされちまうわ

  其れに此の浦は言わずと知れた能登の一之宮気多大社前の宮之浦だ 何

 かと人目も多い 奴らを残したまま俺達だけで海へ飛び込む訳にも行くめ

 えし かと言うて此の浦で船を沈めちまっちゃあ幾らぼろ船といえども俺

 達弁才衆の沽券に関わらあ 

  其れに見てみろいあの竹に雀の織旗(のぼりばた)を ありゃあ上杉の兵

 だ 敵方に手を貸した俺達を奴らが赦す筈もあるめえし取っ捕まっちまっ

 たらおしめえだ うんともすんとも言えねえ内に首を刎ねられちまうだろ

 うよ 前門の虎に後門の狼っちゅうやつよ 」

「 あっしは前門の女陰(ほと)に後門の菊 どちらでもよろしゅうござりま

 すがのう で どうしますんで 」

「 其の前(めえ)に 風を避けやすんでちいとばかし船を走らせやすが雨が

 止む迄 中で御待ち下せいと奴らに言って来やがれ 」

  其の間も風は益々強いものと成り帆桁(ほけた)は甲高く 帆柱は鈍い音

 を立て続け波は更に大きくうねる

「 船長(ふなおさ) みんなおとなしくへいりやしたぜ 」

「 そりゃあ其うだ 船の上じゃあ俺達の言う事を聞くしかねえんだからな

  いいか良く聞け 滝崎を越えちまやあもう人目を気にするこたあねえや

  だが 柴垣の海岸迄何とか此のぼろ船を持たせるんだ 其れぐれえ俺達

 の腕を以てすれば何とか成るべえよ 」

「 なある あの辺りは浅瀬でやんす 波に乗りゃあ勝手に砂地に着いてく

 れやすな 」

「 其う言うこった

  船主の杉江様は感の良い御方だ下手な嘘は付けねえや だがな俺達は必

 死に船を操りましたと実を作って真を言えば嘘とばれる筈もねえやな 」

「 流石は船長(ふなおさ) 」

「 へっ おだてるねえ 

  おうっ 舵持ちには舵を当て乍ら舳先を北へ向けろと伝えろ 但し無理

 をしちゃあならねえとな 其して柴垣の岸に近付いたら … 」

「 扉に閂を通して舵を縛り付けるんでやんすな 」

「 判ってんじゃあねえか 万に一つでも戻って来られちまっちゃあ俺達の

 命はねえ しっかり結ばせろ 」

「 へっ へえ ですが他の船は付いて来やすかね 」

「 心配するねえ考えるこたあ同じだ ほれ あいつらも船を廻し始めたじ

 ゃあねえか皆 己れの命は惜しいもんよ 」

⦅ … 御影の衆には済まねえが悪く思わんでくれよ 命あっての物種だあ

   だがよう 此の三船で最期を迎えるなんざあ此れも運命(さだめ)っ

  てやつだな あんたらには相応しい棺桶に成るだろうよ

   重しの銭は勿体ねえが三途の川の船賃と思うてくれてやらあ

   せいぜい成仏してくんなあ … ⦆

  持衰(じさい)の風習も廃れて久しいが 船長(ふなおさ)は此の三船を御影

 一族の冥土への水先人としたのであった

  海に慣れぬ御影の者らは 船が動き出すと同時に酔いをもようす者が相

 次ぎ 傾きが増す度に酔いも増し窓は在るものの立つに立てず 然程時間

 (とき)を措かぬ間に床は吐瀉物で汚れ 船が波間を木の葉の如く舞う度に

 汚物にまみれた身体は異臭を放ち其の悪臭が新たな吐瀉を生む

  七尾の城内で悪疫に耐えて来た者らであったが 中には疫の種を宿して

 居た者が居たのか年老いた者や幼子から斃れ出し もはや泣く事の出来ぬ

 子を抱えた母親は泣き叫ぶ事しか手立てを知らず 船内は悲惨を極め宏実

 の苦悩の始まりと成った

  三日後の朝嵐は漸く収まり 扉を抉じ開けた者から表え出 出た者は甲

 板に横臥する あれ程猛威を奮って居た風は何事も無かったかの様にぴた

 りと止み 空は何処までも蒼く荒れ狂った海も静やかに碧かった

  昨日迄とは打って変わった其の景色に 皆生の実を噛み締めて天を仰ぐ

  廃船間近い三船が一船も沈む事無く揃って浮かぶ其の様は 正に奇跡の

 一語に尽き御影の者らは互いに手を取り合って喜びを分かち合い 慣れぬ

 櫂を手に船を寄せ綱を投げ合って船を繋ぎ 宏実と組頭は額を寄せて現在

 (いま)を語る 死者は三船合わせて十五名であった

  宏実は心を傷め乍らも

 「 消沈して居る暇は無し 」

  真水の有無を確かめる可く船尾へ向かう

  弁才衆が爐呂〞と呼ぶ真水を溜め措く水樽は船の最後尾に据えてあり

  三船共に樽の蓋は外れ水は半分も残って居なかったが 真水があるとい

 う事にほっと胸を撫で下ろした宏実は 船尾から屋倉の屋根迄駆け上がり

 大音声で宣った

「 皆の者 先ずは己れの身と船を浄(きよ)めねばならぬ

  着物を脱ぎ 海の水を汲み上げて身体を洗え 洗い終えた者から病者の

 身を浄(きよ)めて差し上げよ 亡骸は筵帆を切り分けてくるみ屋根の身木

 (みき:舵の軸)の前に並べ置け 其れを為して後着物を濯する者 船内を拭

 き浄める者 船の修繕を試みる者に分かれ作業に当たるのだ 」

  率先垂範 宏実は着物を脱ぎ下帯の紐も解(ほど)いて素裸と成りざぶん

 と海へ飛び込んだ 皆も宏実に倣って着物を脱ぎ次々と海へ飛び込み 泳

 げぬ者は綱で結んだ桶を海へ向けて放り込む

  最後の一人が飛び込み終えた頃 濡れ髪を後ろへ掻き上げ乍ら折れた帆

 柱へ歩み寄った宏実は 帆柱の綱を着物を干す干し綱に張り替えて再び屋

 倉の屋根へ上がり 鮪(しび)の如く並ぶ亡骸の前に膝を着き手を合わせて

 頭(こうべ)を垂れた 立ち上がり様 舵柄に凭(もた)れて腕を組み今手を合

 わせたばかりの波打つ筵帆にちらりと目を遣る

⦅ … あの不浄極まり無い船内で死者は出たものの 波に浚われた者も折れ

  た帆柱の直撃を喰ろうた者も居らず何より船は沈没を免れたのだ

   弁才の者共へ恨み言の一つでも言うて遣りたいが 閉じ込められた事

 が不幸中の幸いであったのやも知れぬ … ⦆

  今は他人(ひと)を恨む事より成さねば成らぬ事が有るのだと 己れを納

 得させる可く屋倉の上から下を覗き込む

  船蔵は 外れた甲板から入り込んだ 空と海の水で満ちて居る

  其処へ洗い流れた汚水迄もが注ぎ込み 修繕組の何人かが混水を掻き出

 して居るものの桶の数も足りず 此のままでは埒(らち)が開かぬと思い倦

 (あぐ)ねて居た処へ矍鑠(かくしゃく)たる老輩が宏実の前に片膝を着いた

「 其れがし 若い時分に秋実様に従うて船に乗り出羽の安東家へ出向いた

 事が幾度かござる 」

  と申し出た

  宏実は 此の水を掻き出す術(すべ)を知って居ろうかと問い

  老輩は 其れを告げに参りましたと面を上げた

「 帆柱の根の真後ろに爐垢辰櫃〞と申す水を吸い上げる絡繰(からく)り

 がございます 他の船には既に其の所在と扱い方を伝えて参りましたが

  宏実様 … 実は此の三船 其の折りの三船に相違ござりませぬ

  其の証しに其れがしが乗り合わせました船には良馬(りょうば)丸 隣の

 船は良鷹(りょうおう)丸 其して此の船には良杉(りょうさん)丸と墨書きさ

 れた船名額が船内に掲げられて居りました故間違いござりませぬ 」

  宏実の眉がぴくりと動くも 既に知って居たのか其れは聞こえぬそぶり

 で爐垢辰櫃〞の扱い方を訊ねて後 

「 御老輩 櫂と舵を扱えるか 」

  と続けて問い 見様見真似ではございますが と応じた老輩へ

「 ならば此れより其方が師となり 我らへ手解きして下され 」

  言うなり 宏実はざぶんと船蔵へ飛び下り 絡繰りの前に立ちぎっと握

 り締めた爐垢辰櫃〞の取っ手を引き上げては押し戻すを繰り返し 其の

 度毎にずずっ ずずっと鼻を啜(すす)るに似た音の後にぼこっ ぼこっと

 大きな泡が足下から湧いて出る

  手の者の 代わりまするの声掛けも耳に届かぬのか 何かに取り憑かれ

 た様に一心不乱に取っ手を動かし続け 全身から汗が吹き出し意識が朦朧

 とし始めた頃 漸く水は少しずつ引いて行きゆっくりと渦を巻き始めた

  其の渦の真ん中で

⦅ … やはり 俺は此の船に乗る運命(さだめ)であったのだ …

   運命とあらば 神は我らを彼の地へ導かれる御積もりなのか … ⦆

  宏実の心の叫びが過去の記憶を呼び覚まし其の記憶が脳の中で渦を巻く

  渦は更に大きく激しい渦と成り 兄組のみならず縁者の方々迄をも巻き

 込んでしまった事に 宏実の心の帆柱は今にも折れ其うな程ぎしぎしと音

 を立てて揺れて居た 

                …

                …

                …

                …

                         つづく


  







  









 

 

  


  

 

  

 

 

  



 


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