七尾の一本杉
偽りの首が晒されて居る頃 尊治は塩漬けにした両首(もろくび)を両御
本家様の御前に差し出し金丁を為した約を終えたのだが 義綱は尊治の帰
館の挨拶も済まぬ内に首樽を足蹴にし 両脇に両首抱えてふらふらと矢場
に向かう 安土に両首を押し込んだ義綱は諸肌脱いだ其の手で弓矢を手に
謝場に立ち何事かを呟いては矢を放つ 其れは信じられぬ場景であった
重過ぎて刀も持てぬ筈の腕が弓弦(ゆずる)を引き絞り矢を射るのである
どうやら 温井らに殺された二人の子と孫の名を順に呼んで居る様なの
だが 痩せ細った両腕と胸に浮き出る肋骨(あばらぼね)を除けば 往時と
変わらぬ斉整たる美しい射姿が其此にあった だが其の面に情の欠片が一
片も現れぬ様は恐ろしくもあった
❨ 温井と三宅確かに憎い なれど …
呉の伍子胥(ごししょ)の如く屍に鞭打つ行いは如何なものか
其此迄致さねば 恨みの気は晴れぬものなのか ❩
『 何を言う尊治 御前とて 村島の身が轂(こしき)に変わり果て様とも
止(と)める事無く矢を射続けさせたではないか 』
兄 宏実の声が今にも聞こえて来そうであった
数日後 倫組の小頭 藤八が余呉の御館を訪ね来たり
“ 至急御戻り願いたし ”
源心の報せに 尊治は余呉を後にした
「 鍋蓋の手盾も其うだが馬の耳に念仏ならぬ小鈴とは
何とも恐れ入りぞ尊治 其方ならば千 万の兵も任せられよう いや
任せてみたいものよ 」
新城小丸山の城内 連龍と十年振りに会うたあの時と同じ部屋である
安勝を真ん中に 左に家久と源心 右に利好と連龍が膝を並べ既に酔う
て居るのか佐脇は上機嫌であった
「 御戯れを家久様 此度の戦で策を練る事が如何に難しいかを痛感致しま
した 千 万の兵を預かる将の気苦労 お察し致しまする 」
「 尊治 詰まる処戦とは 与えられた持ち場を任せられた者の才に拠る処
が大きいのだ 将の命に忠実に従いながらも 些細な事も見逃さず将の意
を察し将の思考に近付く可く臨機応変に動けるか否かに懸かって居るのだ
蒲生賢秀殿も言うて居ったが 御影の者らは其れが出来て居る
見事であったぞ尊治 」
「 安勝様 此の尊治
組の者を褒めて頂く事何よりも嬉しく馳走でござる 」
「 鈴と申さば御影殿 此奴の首にも下げた方が宜しいのではござらぬか
全く以て油断も隙もならぬ奴でござる 」
尊治の左後ろで此れ以上平伏す事が出来ぬ程
板敷きにへばり付く男が一人
「 連龍の申す通りよ 命拾いをしたのう … 何と言うたか 」
「 はっ 名無し改め九内(きゅうない)でございます家久様 」
「 其うじゃった 其うじゃった 予め尊治より報せを受けて居らねば今頃
汝の首は胴から離れて居ったのだぞ 」
「 全くでござる佐脇様 機を見て隠した埋納銭を掻っ攫う気で居ったとは
御影殿に感謝せえい 」
赤ら顔の般若が声を荒げる
「 へへええっ 以後 身命を賭して御影様に御使え致す所存なれば
何卒 何卒 御容赦の程ををっ 」
「 はっはっはっ 尊治の命を救うてくれたのだ 其れに免じて既に赦して
居る 赦して居るが故に汝は此処に居るのだ のう源心 」
「 はっ 安勝様 … 然し
此奴が姿を消したと報せを受けた時は真逆と思いながらも 尊治殿の申
された通り鰯が池を張って居りましたならば 闇に紛れのこのことやって
来居りましたは 全く …
尊治殿の恩を仇で返すとは此の不届き者めえいっ 先程の言葉 嘘偽り
とあらば汝の舌を抜き残る左の手も断つ 心致せっ 」
「 ははああっ 」
九内の汗にまみれた額が 此れでもかと板敷きにへばり付く
「 源心 銭は戻ったのだ 其のくらいにして措け … とは言うものの
尊治 良う気付いたのう 」
「 はっ 荷駄組の組頭 塩沢と申す男相当肥えて居りました故 」
「 成る程 其の分抜いたと 」
「 はっ では無かろうかと 」
「 なれど 拝殿前の鰯が池とは 此の者も考えましたな父上 」
「 利好の申す通りよ 池は燃えぬからのう 其れに 池の杭を目印に輪に
して結んだ埋納銭を輪投げの如く落として措くなど 良う考えたものよ
のう尊治 」
「 はっ 火遁と水遁の合わせ技 中々の策士でございます 」
「 で 銭の使い道 未だに口にせぬのか 」
「 はっ 頑として申しませぬ 」
「 其方の命を助けた事もか 」
「 はっ 聞かば舌を噛み切ると申しますので 」
「 ふむ … まあ良い 一度味噌が付いた銭だが尊治
此度の褒美と思うて其方が好きに使うてくれ
九内とやら もう下がって良いぞ 」
其の言葉に九内は平伏したまま後退り 安堵の笑みを漏らしつつ部屋を
後にした
「 … にしても安勝殿 其れがしは今直ぐにでも此の尊治を我が臣にした
いものでござる 」
❨ 佐脇殿 其れは此の安勝とて同じ 何より 我が前田の為にも … ❩
安勝は 其れがしもと笑みを送り
「 尊治 源心に聞いたが やはり行くのか 」
尊治へは 優しくも寂しい目を向ける
「 はっ 我が父 政治の行方の手掛かり掴めたのでございます
行かねば成りませぬ 」
「 なれど尊治 武蔵の国の永田服部は昨年 箱根の山中にて何者かに襲わ
れ配下の半数を失うたと源心から聞いて居る 為に小田原北条家より拝命
せし小代官の御役目を全う出来ずに居るのだと 疑う訳では無いが其の話
し信じて良いのか 」
佐脇は揺れる扇子を握り締め 握り締めた右手が膝からがくりと落ちて
も尚 酔い目がとろりと尊治を見詰めて居る
「 はっ 何せ玄庵殿より寄せられし文には知らぬ筈の蝦夷の水断ちの御刀
の名がはっきりと記されて居りましたので 信じぬ訳には参りませぬ 」
「 ふむ … で 尊治 口寄せにて現れし 水神流夷成る御方が申された
三振りの御神刀で山を成せの山とは 例の直角を有する三角の形の事を言
うて居るのではないのか 」
「 左様でございます安勝様 其れがしの御刀の銘の下には三 我が兄の御
刀には五 其して奪われたままの御刀には四の刻印が打ち込まれ鍔元の鎬
地には其れ々御姿の違う蛇神様が彫られて居るのでございます
其の蛇神様を移し取り 辺三を一寸とする三角の内円に移し取った蛇神
様を巧く重ね合わせますれば 其の山が俯瞰出来るのだ其うでございます
… 問題は 」
「 俯瞰 か 」
「 はっ 人は空を飛べませぬ故 」
「 自家の家伝に信を置けぬ理由の一つか 」
「 はっ 」
「 其の家伝の事だがのう尊治 … やはり … 真のものぞ 」
佐脇の酔い目が浪目に変わり ぐにゃりとした口の端が上を向く
「 真 とは 」
「 うむ … 良おおく聞くのじゃぞ尊治
以前の時に申して居った角の生えた蛇 … 真に居る其うじゃ 」
「 何方が其の様な 」
「 正義の男から聞いた話しじゃ 間違い無い 」
「 正義の男 … 高山 右近様 」
「 其うじゃ 此の日本にも頭に角を生やした蛇神様の話しがあろうと 」
「 あっ 確か … 常陸の国に 其の様な 」
「 其うじゃ連龍 夜の刀と書いて やとの神と申すお話しよ 」
「 夜の刀で夜刀 … 暗闇の中 忍び入る曲者へ音も無く忍び寄り 音も
立てずに葬る 御影の家伝に相応しい神の名でござる 」
「 利好様迄 」
「 未だ在る … 其方の御先祖様が仕えて居た大日出王(だいびでおう)の
頭文字 御影の家伝通り 元は三角の形をして居るのだ其うだ 」
「 真逆 」
「 尊治 其方は正義の男 高山右近殿の言に信を置けぬと申すか 」
「 いえ 置けぬとは申しませぬが 」
「 まあ聞け 其の三角の形は“でるた”と音し 砂泥が河口に堆積する三角
州の事を言うのだと 字は出るに流れる田を当てれば解り易かろうと 」
「 出流田 成る程 わざわざ安土迄出掛けた甲斐がありましたな 」
「 ひゃっひゃっひゃっ 真に 安勝殿 愉しかったぞい尊治 」
笑いと共に打とうとした手を空に振り つられて身体も大きく振れる
「 安土へ … 」
「 うむ 伴天連の神の学問所は城と共に燃えてし申た故 高山殿は其の検
分に参って居ったのだ
其れでのう尊治 其の角の生えた蛇神様が示す山とは 嘗て信長様が其
の真偽の程を確かめたいと仰せられた 幻の金山の事ではないのか 」
安勝の膝がぐいと前に出る
「 … はっ 仰せの通りでございます 」
「 父上 幻の金山とは 」
「 うむ 畠山重忠公が頼朝公より賜りし葛岡成る地の事よ 」
「 葛岡 らしゅう無い地の名 でござりまするな 」
利好の面は安勝を向いたまま 其の目は尊治の右を見て居る
「 古(いにしえ)に彼の地の山が大噴火を起こした際 小坂村の東の山々は
燃え盛る泥を良く防いでくれましたが 降り注ぐ大量の灰により山の地は
荒れ育つ物と言えば葛ばかり 故に土地の者らは其の山を葛岡又は葛山と
呼び口の悪い者らは屑の山と呼んで居た其うでございます 流夷様は金山
の存在を重忠様に伝えて居り重忠様は頼朝公に自ら望んで其の地を所望為
され 見た目には不毛の地故重忠様らしからぬ望みと皆訝り乍らも誰も異
を唱える者は居らず重忠様は何時の日か一族の御役に立てる可く其の金山
を秘匿為され三振りの御神刀打ち直しの際 其の在り処を蛇神様に託し印
為されたとの事でございます 然し乍ら蝦夷の水断ちの御刀は石田時猛成
る者に奪われたまま其の行方も知れぬままでございましたので 水断ちの
御刀の事も葛岡成る金山の事も何時しか言い伝えに過ぎぬものと解されて
来たのでございます 」
「 成る程のう … なれど尊治 そもそも何故御影の者が彼の地へ遣わさ
れたのだ やはり其の金山が目当てであったか 」
「 いえ 真に在るかどうかも判らぬ金山は二の次でございました
応仁の乱後凡そ五十年経ちましても困窮から抜け出せぬ公家の方々を援
助す可く 当時の能登の守護畠山義総様は出羽の国並びに陸奥の国に杉の
良木 良馬 良鷹 更に狭布の細布(けうのせばぬの)と織り手を求められ
我が祖父蔵治の弟 秋実様に白羽の矢が立ち彼の地へ遣わされたのが初手
でございます 」
「 ほおう … 上手く遣れたか 」
「 はい 義総様は元より御爺殿も 安東家のみならず南部家と迄も交易の
約を交わした上 小坂村の一本杉の館跡に出張り所を設けて来るなど想う
ても居らぬ事であったと 随分と驚き歓ばれた其うでございます 」
「 … 出張り所 … 成る程 出張り所か 」
「 如何為されました父上 」
「 うむ 尊治 秋実殿の後を継がれたのが其方の父 政治殿なのだな 」
「 はい 我が兄宏実が向かう迄の継ぎと御爺殿は言うて居りましたが 」
「 其の宏実(ひろざね)殿は現在(いま) 小坂村に居るのだな 」
「 はっ 其の様でございます 」
「 父上一体何を 」
「 うむ 余呉においでの方々が能登を追放されたが為に 閉ざされてし申
た交易の道 … 尊治 我が前田は其の交易 再開を望んで居るのだ 」
「 我が兄に其の任を担えと … 」
「 うむ 」
「 なれど安勝様 我が父の生死の行方が判じられぬ内は … 」
「 我らは政治殿の生死の行方が判じられぬ内は 御影畠山の当主は其方の
兄 宏実殿と思うて話しを進める積もりで居るのだ 其れでは不服か 」
「 いえ 不服だなどと … 」
「 縛られるのが嫌なのだな 」
「 … 」
「 はっはっはっ 案ずるな 其の辺りは儂に任せよ
其れでな尊治 再び交易の道開けたならば 其の利益の一部を余呉の方
々に当てれば 方々の余生は何不自由無く過ごせよう 」
「 やっ 安勝様 」
「 まあ聞け 能登は我らが任せられる事と成った 七尾城は廃城と成るが
新城小丸山城の城代は儂と利好が務め連龍は其の足場を固める だが信長
様亡き今戦は続くであろう 其れで有るのにだ 我が前田はまだまだ人が
足らぬ 信の置ける者がのう … 尊治 腹蔵無く申そう其方の父 政治
殿の生死の行方が判じられたならば 其の後は我らの元へ来ぬか 」
「 是非其うしてくれいっ … のう 尊治 」
「 此の能登で生まれ育った我ら 共に能登に尽く其うではないか 」
「 安勝様 家久様 連龍殿 … 後ろが在るという事が此れ程頼もしいも
のだとは此の尊治 今迄存知る事無く生きて参りました 今の御言葉心の
拠り所と致し必ずや生きて再び皆様の御前に現れい出ます事 御約束致し
まする 」
尊治は心の底から其う思い 拳を付いた
「 … こっ 香梅殿 肩の傷は 如何か … 」
利好の突然の声掛けに 尊治は拳を付いたまま静かに後退り
源心と連龍も続いて後ろへ滑り 安勝は佐脇を抱えて奥へと消えた
「 香梅 とお呼び下されませ利好様 未だ痛みはございますが 其れは私
が生きて居る証しでございます 此の位の痛みに耐えられぬとあっては亡
く成られた性寂坊様に申し訳が立ちませぬ 私の思慮が足りず手当てを怠
ったばかりに 性寂坊様を死に至らしめてし申たのは此の私でございます
後悔の念に堪えぬ日々を 過ごして居りまする 」
「 なっ 何を言われる香梅殿
其方の御蔭で御山の動静全て探る事が出来たのだ 御屋形様より先陣を
賜りし其れがし 石動山突入後 何処をどう攻める可きかなど容易なもの
であった 我が手柄は其方の手柄性寂坊の事はあ奴ら 其方を見破れぬ腹
癒せでした事であろう 其方が気を病む事は無いのだ 暫くは余計な事を
考えず養生に専念為さり傷を癒やされよ 心に傷を負うて居るならば時を
掛けてゆるりと治されるが良い 心と身体が整うて此其 人は其の生を愉
しむ事が出来るのだ 小丸山の名は其方の曽祖父 円山梅雪殿に因み畠山
義総殿が名付けられたと聞き及んで居る 其の梅雪殿の屋敷跡円山館跡に
新たな庵を建てる積もりで居る故 懐かしの場所で御過ごし下され
香梅殿 此の利好の願いでござる 是非とも其うして下され 」
利好の焦恋(じれん)であった 香梅の頬にも紅が散る
利好は 香梅を初めて見た其の時から 目を奪われ心は囚われて居た
あの晩 尊治の策を聞き心が傷んだ
利好が石動山突入直後 火の宮を目差したのは言う迄も無い
香梅は意識が朦朧とする中 馬上で誰かに優しく抱えられて居る事に気
付いた 肩の痛みが和らぐ程に不思議な安堵が其処にあった 右腕を男の
背に回し燃え盛る炎で温められた胴丸に頬を寄せた
「 死んでは成らぬ 死んでは成らぬ香梅殿 其方は死なせん 此の俺が死
んでも死なせん 」利好の声であった
尊治が余呉へ向かって居る間
利好は毎日香梅を見舞い厚い手当てを施すも
「 私一人が特別扱いは成りませぬ 」
言い張る香梅が一層愛おしい人と成って居た
❨ 私とて 幼き頃尊治様と唇が触れた事がありまする ❩
何かの遊びの拍子に 唇が触れた
加世との違いは 香梅は腰に小さな刀を差した梅之介であった
だが其の瞬間から梅之介は香梅へと芽生えてしまったのである
石動山入山の際 女見役が香梅を見抜け無かった訳は香梅の陰経と陰囊
が余りにも小さく 茂みに隠れて居た為であるが 香梅の性と一物の大き
さに関わりは無い様である
香梅の尊治に対する情は変わらない だが今其の情に勝る情を受けて居
る 利好の情を受け入れる事で幸せに成れるのであれば 其れも一つの生
き方ではないのか
求不得苦(ぐふとくく) 求めるものを得られぬ苦しみ
五蘊盛苦(ごうんじょうく) 心と身体が思う通りに成らぬ苦しみ
香梅は利好を受け容れる事で 心と身体が整い
長い此の苦しみから 漸く解き放たれたのであった
能登を発つ朝尊治は
「 懐かしの場所へ 寄ってから行こうではないか 」
皆を誘う
小丸山の麓の辺りから所口湊に掛けて凡そ一里にも及ぶ町並みが軒を連
ねて居る 其の町並みから奥能登へ向かう道が幾筋か分かれ出ていて 其
の一筋へ足並みを揃えて歩みを進めるも 菊花と小虎が足並みを乱して走
り出し万亀丸も二人を追い松之丞と龍蔵も続いて走り出す 其の木は一際
高く聳え立ち相も変わらぬ美しい枝振りを見せて居る
彡(さん)には “ 美しい ” と言う意味が有ると云う 杉とは枝が風
に靡く様が美しい木と言う意味であろうか 真に美しくもあり父の力強さ
と母の優しさを兼ね備えた様に立つ木である
其の美しい一本杉があの頃と変わらぬ姿で迎えてくれ 道の傍らに立つ
木の下は広場と成って居て七尾の子供達の恰好の遊び場でもあった 弟組
の者らも幼い頃此の木の下で遊ばぬ者は一人も居なった
菊花と小虎は中程迄登り終え梢の間から下の者達に手を振り 万亀丸は
二人が立つ枝に手を掛けるも 松之丞と龍蔵に足を引っ張られ動くに動け
ず夏虫の如く必死にしがみついて居る
「 尊治様 此の杉の木は 秋実様より送られし第一便記念の杉と聞き及ん
で居りますが 」
「 良う覚えて居ったのう傅助 運ばれて来た時は一間にも満たぬ若杉であ
った其うだが 其の成長振りを皆に見て欲しいと義総様手ずから此の場所
に植えられた其うだ 」
「 … 傅助殿 共に加わりたいのではありませぬのか 」
「 なっ 何を申す香梅 ちょんこと幼き頃を思い出した迄よ 」
「 ほほっ 私は既に思い出して居りまする
ふっふっふっ ほっほっほっ 」
香梅は袖口で口を抑えつつ 傅助の肩を軽く叩いた
「 おおっ 思い出したは 我らの中で此の木の天辺迄登り詰めたは傅助
御前が最初であったなあっ 」
「 覚えて居ったか勝 正しく俺が一番に登り詰めた だが其のあと下りる
事の出来なく成った俺を一人残し帰り居ったは 何処の何方様達であった
かのう 」
「 何だ 未だ恨んで居るのか 夜の来る前に梯子を担いで迎えに来たでは
ないか のう広之進 」
「 ふっ 其の様な事もあったな すっかり忘れて居ったが …
然し … 楽しかったのう 真に我ら 良く遊んだものよ 」
「 うむ 於菜恵殿も居られたな 」
「 其うだった其うだった 何時も我らの後に着いて来ては尊治様に帰れと
叱られ良く泣いて居った 其んな於菜恵殿を慰めて居ったのが …
あっ 」
「 此れ傅助 」
「 構わぬ勝 我ら七人何時も一緒で顔を合わさぬ日など無かったではない
か あの頃は本当に楽しかった 我らと秀光 竹馬の友であったは真の事
其れは変えられぬ 変えては成らぬものなのだ … 」
仁王門の炎の中尊治は秀光を斬ってはいない
斬れ無かった と言う可きか
斬ったのは 黒丸が背中に背負って居た盥の形をした母衣であった
母衣と言っても中は空洞では無く 幾重にも重ねた獣の革が詰められて
居て謂わば盾の様な物であった
「 秀光様 今のうちに 」
黒丸は気組みを高め 尊治の前に立ち塞がる
「 良いのだ黒丸 」
言いつつ ずいと前に出様とする秀光の元へ
「 成りませぬ 成りませぬ秀光様 貴方様は此の様な所で死んでは成らぬ
御方でございます 御願いでございます黒丸の申す通り今のうちに 今の
うちに どうか … 」
叫び乍ら美しい女御が駆け寄るも 何処か怪我をして居るのか女御は寸
前でばたりと倒れ込む
「 茂菜殿 」
透かさず秀光が片膝着いて抱き起こす
其れを目にした尊治は軽く目を閉じ 刀を一薙させて其の場を去った
あの時 秀光が茂菜を抱き起こした其の時
尊治には別の場景が脳を過ぎって居た
燃え盛る炎の中
己の喉を突き刺して倒れ込む於菜恵を
猛炎から庇い 抱き抱えて居る秀光が其此に居た
❨ 秀光の火傷は其の時のものだ …
俺は秀光を斬れなくて良かったのだ …
幼い頃の思い出は今日の様に 取り出せる日迄納めて置く事に致す
此の木の下での思い出も生涯忘れる事は無い ❩
「 尊治様 あっしも 」
「 登れるのか九内 」
「 へへっ 」
言うが早いか 駆け出す九内は目にも止まらぬ速さであっという間に木
の天辺迄登り詰めた
「 はっはっ 大したものだ 」
皆 ひとしきり遊び終えた頃
「 尊治様 そろそろ 」
「 うむ 」
広之進の促しに
尊治らは 思い出多い杉の木に別れを告げ
香梅一人を残し
武蔵の国へと旅立ったのであった
「 誰ぞに追わせますか父上 」
「 追うた者が斬られるだけよ 」
「 では 何も致しませぬので 」
「 ふっ 行き先は武蔵の国の永田村だ其うだ 彼の地は上杉は無論 長尾
家の故地に程近い故伝手は数多居る 奴らが着いた頃を見計ろうても遅く
は無かろうよ
其れより 今の内に軒猿組を駆逐し我が伏嗅組の足場を固めねば成らぬ
能登は此処迄じゃ 」
言うなり
秋草の葉がゆらりと揺れ
一度離れた蜻蛉が直ぐ様舞い戻り
何も無かったかの如く
再びとまり そろりと羽根を休め出す